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ヴェネツィア観光の穴場スポット

歴史のあるヴェネツィアには沢山の観光スポットがごさいます。
魅力ある観光スポットが沢山あり、もう王道な観光スポットは行きつくしたという方達にヴェネツィアの穴場スポットをご紹介いたします。
少し違う、刺激も求めて行ってみては如何でしょうか?

― 見どころ ―

見どころ見どころ

アカデミア橋

アカデミア橋

ヴェネツィアを代表する写真スポットで、アカデミア橋から見えるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会と大運河を背景にした光景は、ファッションブランド ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton Malletier)のプロモーションでも使われたほどです。
現在のアカデミア橋は1933年に造られたもので「木造の橋」ですが、その前はオーストリアの占領下にあった1854年に架けられた鉄の橋でした。オーストリアによって、本土とヴェネツィア本島を結ぶ橋が架けられ、鉄道駅(ヴェネツィア・ サンタ・ルチア駅)ができました。ヴェネツィア サンタ・ルチア駅とサン・マルコ広場を最短で結ぶために、大運河にかかる2番目の橋として「アカデミア橋」の建設が決まりました。1932年12月10日に建設が始められ、37日後の1933年1月15日には橋がかけられ、2月には木製の仮の橋として開通しました。その仮の橋の姿のまま、現在に至ります。(2018年8月修復工事終了)
仮のつもりがそのまま正式に決定となることをヴェネツィア人は、「アカデミア橋のような仮の決定」、と例え話にします。日本ではあまりないかもしれませんが、イタリアではよくそういうことがあります。
水辺に近い木造のアカデミア橋を維持するには、頻繁な維持修理と多くの費用が必要です。最近では2012年より募金が始められ、その間に火災事故もありましたが(幸いにも迅速な消防署の介入で被害は軽微)2018年の修復が実現しました。この修復には、ミラノの眼鏡メーカーが寄付をしてスポンサーとなりました。
年々、削られる国家からの予算は減る一方、修復の必要な古い歴史的建造物が多いヴェネツィアでは、スポンサーを募って修復を行うため、修復に広告が目立つのはこのためです。
アカデミア美術館側の階段数は52段、その反対側は53段となっています。アカデミア橋を渡りながら、素晴らしい大運河の眺めをお楽しみください。
ヴェネツィアと有翼のライオン

ヴェネツィアと有翼のライオン

ヴェネツィアを訪れると、いたる所に「有翼のライオン(翼のついたライオン)」のシンボル、飾り、像を見つけることができます。有翼のライオンはヴェネツィアの守護聖人「聖マルコ」の象徴としてキリスト教で古くから使われています。また、宗教画で有翼のライオンと一緒に描かれている人を観たら、それは聖マルコと思ってください。聖マルコは新約聖書の四つの福音書の1つ「マルコの福音書」を書いた人です。ちなみに、新約聖書の四福音書を記した、マルコ、ルカ、マタイ、ヨハネはイタリア語でエヴァンジェリスタと呼ばれ、聖人の中でも別格で、それぞれ象徴があります。
聖マルコは福音を広げるため、エジプトへ向かうために、アクイレイア*を旅立ちました。(*アクイレイアはイタリア北東フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州にある古代ローマ帝国の植民都市で交易、軍事的に重要な拠点であった場所)
その後、ヴェネツィアのラグーンで嵐により遭難し、ヴェネツィアの教会(サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会)に滞在することになりました。その時にライオンの風貌をした「神の使い」から『福音者マルコよ、安らかに休息する場所をここに見つけることになるだろう』と告げられたと言われています。
そして、この預言は828年、エジプトのアレキサンドリアにあった聖マルコの遺体が、ヴェネツィアの商人によって、ヴェネツィアに運ばれてきたことで成就しました。サン・マルコ広場にサン・マルコ寺院が作られ、そこに聖マルコの遺体は安置されました。その時から聖マルコはヴェネツィア共和国の守護聖人となりました。ドゥカーレ(Ducale)宮殿の布告の門上部の美しい彫刻*のように、総督(DOGE) は聖マルコから権力を与えられ、認められた存在とされていました。(*ヴェネツィア総督 フランチェスコ・フォスカリが有翼のライオンに跪(ひざまず)き、聖マルコから総督になるのを認められる様子を描いた彫刻)
ヴェネツィア共和国は、聖マルコを表す「有翼のライオン」を強いヴェネツィアの象徴として、何世紀にもわたり領土を拡大し、支配する地域に「有翼のライオン」の印を残して行きました。
一番初めに「有翼のライオン」を旗として使ったのは、時の総督(DOGE) ヴィターレ・ミキエレの時でした。彼の息子が1096年の第一回十字軍に向けて聖地エルサレムへ旅立つときに有翼のライオンの旗を渡しました。続いて1141年に総督の就任式では、有翼のライオンを象徴とした国旗も新しい総督に授与されるようになりました。
ヴェネツィア共和国の国旗にまで描かれている、聖マルコの有翼のライオンの印は、書物に前足をのせています。ヴェネツィアは平和と公正のもとに国を支配し、民や臣下を正義の力で保護するという意味があります。 ヴェネツィアにお越しの際には、ぜひ「有翼のライオン」を探しながら歩いてみてください。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島

サン・ジョルジョ・マッジョーレ島

ヴェネツィア本島の南側に位置し、サン・マルコ小広場からも見える小さな島です。ヴェネツィア人作曲家ヴィヴァルディとゆかりの深いピエタ教会近くの水上バス乗り場(San Zaccaria)から水上バス2番で簡単にアクセスが可能です。対岸からサン・マルコ地区の全景を入れて撮影できる有名な写真スポットでもあります。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島にはサンベネデクト修道会(キリスト教最古の修道会)の大聖堂、鐘楼、修道所、チーニ(Cini)財団があり、住民は2021年の統計で6人です。サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼はエレベーターで昇ることができ、サン・マルコの鐘楼ほどの混雑もないので、穴場の観光スポットとしても近年人気があります。もともとこの島の所有者であったメンモ家が、982年に修道院建設のため、ベネデクト会に島を譲渡しました。
メンモ家は、ドージェ(ベネチア共和国総督)を出すほどの名門の一家でした。同じくドージェを輩出したヴェネツィア貴族の名門モロジーニ(Morosini)家のジョバンニが当時神父を務めていました。島の歴史は、ベネデクト修道会の歴史とも切り離せないもので、歴史的な記録が修道会の図書館に保管されていましたが、ナポレオンがヴェネツィア占領時に燃やし、貴重な記録が失われました。
ナポレオンの統治時代、オーストリアハンガリー帝国統治時代、イタリア王国の1949年までは軍事拠点として使われていました。そしてオーストリア統治下の時は、自由港となり、世界の覇権を取ったイギリスからタックスヘブンであったヴェネツィアに潤沢な資産が流れていました。
また、1799年から1800年のローマ法王の選出選挙のコンクラーベがこのサン・ジョルジョ・マッジョーレ島で行われたこともあります。1950年には、ムッソリーニ時代の実業家チーニ(Cini)家が航空機事故で亡くなった息子ジョルジョのためにサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の一部を購入し、そこにチーニ(Cini)財団を作りました。静かなで美しい小さな島ですが、いろいろな要素を持つのが興味深いです。
サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂

カナル・グランデ(大運河)にそびえる美しい聖堂は、ヴェネツィアを代表する光景の一つです。ジュデッカ島のレデントーレ聖堂と同様に、願いをかけるために人々が訪れる聖堂です。
当時ペスト(黒死病)が流行し、ヴェネツィア人の3分1に当たる約10万人が亡くなりました。時のドージェ(ヴェネツイア共和国総督)ニコロ・コンタリーニは、聖母マリアに恐ろしいペスト終焉(しゅうえん)を祈願し、終焉した際には聖母マリアに捧げる聖堂を建てることを誓いました(1630年-1631年)。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の建築には、若い建築家バルダッサーレ・ロンゲーラ(Baldassare Longhera)の案が採用され、1687年見事に完成いたしました。(ロンゲーラが亡くなる1年前)
聖堂はヴェネツィアを代表する大きなクーポラを中心におき、その上にさらに小さなクーポラが置かれています。聖堂建築にあたり約100万本の木の杭(くい)を手作業で粘土層まで打ち込んだことが、近年の研究で明らかにされました。この聖堂は「8」という数字を象徴的にさまざまな場所に使い、こだわっています。8という数字は、古くから地上と空をつなぐという意味があります。それはヴェネツィア人の願いを聞き、天上の神へヴェネツィアを救うべく懇願するという聖母マリアの役目そのものです。
サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂は八角形の建物、クーポラの下の側面部分も八角形、16段の階段(8の2倍)、16個の教会内の窓(8の2倍)、真ん中のクーポラ下には8人の旧約聖書の預言者が置かれています。また、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂はヴェネツィア人に最も愛されている教会の一つで、毎年11月21日には、ペストの終焉を記念するためのお祭りが開かれます。(この日はイタリアの中でヴェネツイア市のみが祝日となります。)
お祭りの数日前に、カナル・グランデに舟の橋がかけられ、ヴェネツィア人全員がその橋を渡り聖堂へ詣で祈りを込めてローソクを捧(ささ)げます。
マルコ・ポーロの家

マルコ・ポーロの家

ヨーロッパに初めてアジア、日本の存在ジパングを示したヴェネツィア商人マルコ・ポーロ(1254年頃 – 1324年)の住んでいたといわれる家が、リアルト橋近くの、フォンダメンテ・ノーヴェ(Fondamente Nove)に抜ける道の途中にあります。
イタリアの空港は、その都市にゆかりのある人物の名前をつけていますが、ヴェネツィアの空港はマルコ・ポーロ空港となっています。現在はマリブラン劇場となっている建物が、彼の住まいだったという説が強いですが、100%の確証はありません。
マルコ・ポーロはヴェネツィアの13世紀の貴族商人の息子でした。ヴェネツィア共和国の地中海貿易での経済発展が著しい時代で、その中でも彼は遠くの地まで足を運ぶやり手の商人でした。この時期のヴェネツィアの商人が、家をあけて、何年も帰らないのはよくあることでした。世界のどこに行ってもヴェネツィアの商人がいると言われていた時代で、マルコ・ポーロもそんな商人の一人でした。マルコ・ポーロの父は彼がまだ生まれる前にすでに東方へ旅立っており、マルコは17歳の時に初めて父に会いました。父が不在の間に、母も亡くなり、親戚に育てられていました。商人であった彼の父が再び東洋に旅立つ時、当時17歳だったマルコ・ポーロも一緒に旅立ちました。
そして、マルコ・ポーロがヴェネツィアに再び戻ったのは25年後の42歳の時でした。その後、彼は、ジェノバとの戦いで兵士として従軍しましたが、不運にもジェノバに捉えられ投獄されました。その投獄中に、文筆業を生業(なりわい)とするルステイケッロ・ダ・ピーサ(Rustichello da Pisa)と出会い、彼がマルコ・ポーロの逸話をまとめたのが「東方見聞録」です。
ちなみに「東方見聞録」のイタリア語のオリジナルタイトルは「IL Milione(イタリア語で100万という意味)」です。なぜ IL Milioneというタイトルにしたのか、ということですが、東方での逸話を話すときに、マルコ・ポーロがよくIl Milioneという言葉を、元の皇帝フビライの豊さを表現するために連発していたからです。マルコ・ポーロは何年もフビライの側近として仕えていました。この本は、その後も旅をする人の参考本となったのです。
リアルト地区

リアルト地区

数々の戦いや敵の襲撃から、ラグーン(潟)の中の方が安全であるということで、9世紀にトルチェッロ島から現在のヴェネツィア本島がある場所に本格的に都市機能を移すことが決められました。
リアルト地区は居住地区として、最初に作られた地域の一つです。ヴェネツィアは、河と海の混じり合う浅瀬のラグーン(潟)に、粘土層まで木の杭を何本も打ち込み、その上にイストリア産の大理石をのせ、人工的に作られた土地です。ヴェネツィア共和国では、リアルト地区(商業の中心)、サン・マルコ地区(政治と信仰の中心)、アルセナーレ地区(海軍つまり軍隊の中心)が重要な場所でした。リアルト地区は11世紀にすでに生活品や食料品を扱う市場がありました。それから時とともに外貨両替(ヴェネツィアの通貨Ducatoは信用のある通貨でした。)などの金融活動の場所となり、そして商業に関連する行政機関、司法機関の場所へと移り変わっていきました。
ちなみに、初期の市場は、売るものによって場所が分かれていました。そのなごりが、今日も地名に残っており、リアルト地区の路地の標識(ヴェネツィア弁でNizioletti)には、Pescaria(魚)、Erbaria(野菜とスパイス)、Macellai(肉)、Ruga degli Orefici(貴金属)などと書かれていますので、探してみるのも面白いです。
リアルト地区は狭い地域で、家、店、倉庫などが小さな路地にびっしりとひしめき合っているのが特徴的です。現在のリアルト市場の入り口側にあるサン・ジャコメット広場には、小さな階段を支えている背中の曲がった男性の像(Il Gobbo di Rialto)があります。この男性の像が支えている階段は、ヴェネツィア共和国時代に政府が公式な決定事項を発表する際に、演説台として使用されました。
また、広場にはサン・ジャコメット教会があり、観光客向けにバロック音楽のコンサートなどが行われています。この地区は、バーカロでも有名で、ヴェネツィア人が「オンブラ」と呼ぶコップ1杯のワインと一口サイズのおつまみ(チケッティ)を楽しめます。
リド島

リド島

アドリア海とヴェネツィアのラグーン(潟)を分けるように横たわっている天然の島で、北のサンニコロの端から、南のマラモッコまでの長さ11kmです。リド島とヴェネツィア本島、もしくはイタリア本土の行き来は、水上路線バスと、車を載せるフェリーボートです。リド島は車が走っている数少ないヴェネツィア・ラグーンの島の一つです。(ヴェネツィアのラグーンには約70の島があります。)
始まりは1053年に、島の北部に航海の守護聖人である聖ニコロの遺体の一部を祀る(まつる)ためベネディクト修道院が建設された時期にさかのぼります。(聖人の遺体の他の一部はプーリア州バーリのサン・ニコラ聖堂へ保管)聖ニコロ教会の近くにはユダヤ人墓地があります。ユダヤ人墓地は1389年より、ヴェネツィア共和国がユダヤ人を埋葬する墓地として指定しました。
島の歴史で重要な地区は、リド島の南側にあるマラモッコ(Malamocco)地区です。かつてヴェネツィアのラグーンの中で、中心的な役割を果たす重要な場所で繁栄していました。
現在は昔の面影を残しつつ、静かな住宅地となっています。
リド島にはプライベートジェットなどが離着陸する空港もあり、世界三大映画祭の一つ「ヴェネツィア映画祭」の行われる場所でもあります。また、1700年代のアドリア海側を防衛するためにイストリア産の石で作った壁が、映画祭の会場であるエクセルシオールホテルから南の端アルベローニ(Alberoni)まで続きます。
アルベローニの砂丘の散策、ありのままの自然とその中で生きる動物観察もまた興味深いです。砂丘は世界自然保護基金からの援助を受けています。
また、リド島は海水浴場としても有名です。6月くらいから9月くらいまで海水浴を楽しむヴェネツィア人であふれています。海水浴場へは、リド島の水上バス乗り場を降り、並木道のメイン通り「サンタ・マリア・エリザベッタ通り(Granviale Santa Maria Elisabetta)」を真っすぐ行くと徒歩10分ほどで着きます。海水浴場でヴェネツィアらしくスプリッツ(Spritz)*を飲みながら、砂浜でのんびりするのも楽しいです。*スプリッツは、ヴェネツィア発祥のカクテルで、リキュール「アペロール(APEROL)もしくはカンパリ(CAMPARI)」とプロセッコ(発泡性白ワインの一種)と炭酸水をブレンドしたものです。
海の家をシーズン中、借りる人も多く、仕事が終われば、すぐに水上バスに乗って、日焼けと海水浴を楽しみにリド島へ直行します。夏の間はリド島の別宅に住み、仕事で本島に通うという羨ましいセレブなヴェネツィア人もちらほらいます。
また、リド島には、1900年代初めのアール・ヌーヴォー建築の邸宅も多く、美しい邸宅を見ながらの散策も興味深いです。観光のベストシーズンは9月、10月です。