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ローマ観光の穴場スポット

歴史のあるローマには沢山の観光スポットがごさいます。
魅力ある観光スポットが沢山あり、もう王道な観光スポットは行きつくしたという方達にローマの穴場スポットをご紹介いたします。少し違う、刺激も求めて行ってみては如何でしょうか?

― 見どころ ―

見どころ見どころ

ジャニコロの丘の大砲

ジャニコロの丘の大砲

ローマで2番目に高いジャニコロの丘はテヴェレ川の西岸の高台でトラステベレ地区の上方にあり高さ88メートルの位置からローマの街が一望できるガリバルデイ広場があります。
もともと古代ローマ時代からあったこの高台には二面の顔を持つジャーノという神が住んでいたと言われ、その2面の顔を使ってローマ人とエトルリア人との戦いを防いだという逸話があります。この神様の名前が由来となり「ジャニコロ」という名前が付けられました。
この高台の広場にはイタリア統一に力を注いだ将軍 ジュゼッペ・ガリバルデイの騎馬像があります。
イタリア統一を目指していたガリバルディがシチリア、ナポリを征服し、1861年にイタリア王国が成立しますが、ローマ教皇領であったローマは、フランスに守られていたため、イタリア王国の支配下に置くことができませんでした。
しかし、1870年バチカンを警護していたフランス衛兵が普仏戦争のためローマを離れた際、イタリア王国は、その隙に武力を持ってローマを占領し、ついにイタリアは完全統一国家になりました。
このような時代背景があることから、ジャニコロのガリバルデイ広場の騎馬像はガリバルデイの顔が正面を向いていなくて少し後方のバチカンの方向を睨(にら)むように向けて作られました。
1870年に国交が途絶えたバチカンとイタリアですが、1929年にムッソリーニがラテラノ条約を結びバチカンとの国交を戻し、バチカン市国が確立し、イタリアはバチカン市国に多くの土地の権利を与えます。現在は、このジャニコロの丘も、丘の後方にあるローマで一番広いパンフィリ公園もすべてバチカンの領土の扱いになっています。
じつは、この高台では毎日12時に空砲が打たれることでも有名になっています。
1847年に時の教皇ピオ9世がローマの教会の鐘を一斉に鳴らす合図のために命じたのが始まりですが、雨の日も風の日も365日欠かさず空砲は撃たれます。
本物の大砲によって撃たれる空砲の音は物凄い迫力があり、必見の場所です。
12時に合わせて空砲を見た後は、トラステベレ地区の方に降りて行くと、途中にはいまだにローマ時代の水道橋を使っていると言われている「パオラの噴水」やガリバルデイ軍の戦死者を祀(まつ)った霊廟(れいびょう)、聖ペテロの殉教した場所に建てられた「サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会」、ローマの植物園や、ラファエロの素晴らしい絵画が残された「ファルネジーナ宮」にも行くことができます。
またトラステベレ地区には美味しいレストランが多いことでも有名です。12時の空砲の音を聞いた後に見学しながら降りて来ると、ちょうどイタリアのランチタイム13時くらいになるので、美味しいローマ料理も満喫していただけるお勧めのコースです!

夏場限定の教皇庁への通路 サンタンジェロ城のパセットと地下の牢獄

夏場限定の教皇庁への通路
サンタンジェロ城のパセットと地下の牢獄

紀元後139年に作られたサンタンジェロ城は五賢帝の一人で建築狂と言われたハドリアヌス皇帝の霊廟として作られたのが始まりとなります。
バチカン市国からサンタンジェロ城に移動する際に外敵からの攻撃を受けずに移動できるように1277年にかつてのバチカンの城壁やボルゴ地区の構造物を合わせながら約800メートルの高架通路(パセット)を作りました。
高架通路(パセット)は、2層構造になっており、城壁の中と城壁の上に分かれています。城壁の中の通路は外敵の攻撃を受けないためのものであり、また雨をしのぐ役目も果たしました。城壁の上の通路は散歩道としても利用されたと言われています。
1494年にフランスの攻撃があった時はボルジャ家のアレクサンダー6世がこの通路(パセット)を使って避難しました。
1527年にローマを襲った「ローマの劫掠」の時にはクレメンス7世教皇はバチカン宮殿からこの通路(パセット)を通り抜けて、城塞に隠れて身を守りました。
サンタンジェロ城は、城塞だけでなく、住まいとしてまた財宝を貯蔵する場所としても利用され、城の内部の装飾は素晴らしいフレスコ画で描かれています。
アレクサンダー6世の時代には地下に牢獄を作り、それが有名なプッチーニのオペラ「トスカ」に繋がっていきます。
また当時の教皇の住まいとして利用していたことからワインやオリーブオイルを貯蔵した場所も残されています。
バチカン宮殿とサンタンジェロ城を結ぶ高架通路(パセット)は、かつては一般公開されていなかったのですが、映画「天使と悪魔(2009/アメリカ」の撮影が決まった時に、サンタンジェロ城の地下牢獄とバチカン宮殿を繋ぐ通路のパセットが重要な役割を果たすため、撮影用にパセットが修復されました。
それ以降は特別に夏季の夜間限定で事前予約制にてご見学が可能になりました。夏のローマは日の暮れが21時過ぎになるので、夕食の後に夕涼みで見学に行かれると映画のシーンが蘇ってくるかもしれませんよ。
鍵穴から見えるサン・ピエトロ大聖堂とオレンジ公園

鍵穴から見える
サン・ピエトロ大聖堂とオレンジ公園

かつてローマは7つの丘があり、その内の「パラティーノの丘」と「アベンティーノの丘」はローマ発祥につながる伝説を残す丘です。
紀元前753年4月21日にローマができたという伝説があり、王位の血を引く双子の男の子「ロムルス」と「レムルス」が都建設を決めるのに鳥占いを行います。
ロムルスが12羽のハゲタカを数え、レムルスは半分の6羽のハゲタカを数えたことからパラティーノがローマの都となりロムルスからローマというと土地名が誕生したと言われています。
「パラティーノの丘」は後々、歴代皇帝の住居となって行きますが、「アベンティーノの丘」はローマ庶民の住居が後の隠れキリシタンの住まいになり、その家屋が初期のキリスト教カトリックの教会になっていくのです。
アベンティーノの丘にある紀元後5世紀に作られたサンタ・サビーナ教会は初期カトリック教会の建築を残す重要な教会です。
その教会の横にはオレンジの木がいっぱい植えられている公園があり、オレンジ公園(Giardino degli Aranci)と呼ばれております。その公園の展望スペースから真正面に美しいサン・ピエトロ大聖堂が眺望できます。
サンタ・サビーナ教会を100メートルほど進むとマルタ騎士団の修道院があります。
そこの青銅の門の「鍵穴」を覗くと18世紀に作られた中庭の生垣にすっぽり囲まれたサン・ピエトロ大聖堂が姿を表すのです。
なかなか写真には収まらない小さな鍵穴ですが、鍵穴からサン・ピエトロ大聖堂を見るために多くの観光客が列を作っていつも順番を待っています。
また、マルタ騎士団の修道院の反対側にはサン・アンセルモ教会があり、そこのショップには教会のオリジナルのお菓子や香料などが販売されています。
近くにお越しの際にはぜひお立ち寄りをオススメいたします。ステキなお土産ものが見つかるかもしれません。
「水の街(La citta' dell’Acqua)」 ローマ時代の地下水が流れる住居

「水の街(La citta’ dell’Acqua)」
ローマ時代の地下水が流れる住居

ローマ時代には11本の水道橋があり、その豊かな水量がローマ市内に多くの公共浴場や噴水などを作り上げ、皇帝の邸宅や元老院、貴族の邸宅には噴水が中庭に作られました。
また、紀元前3世紀にはすでに下水道のシステムも出来上がっていました。
11本の水道橋の内、特に石灰の混入量が少なく清らかな水として伝えられたのがヴィルゴ水道でその水は「処女の水(Acqua Vergine)」とたたえられました。
ローマから20キロ離れた水源地にあるヴィルゴ水道は紀元前19年に完成し、水路の高低差は当時では珍しく4mしかなく、ほとんどが地下にある水道管で流されていました。
その水がボルゲーゼ公園からローマ市内に入り、ポポロ広場からスペイン階段の方に抜け、「バルカッチャの噴水」や「トレビの泉」に利用され、その後パンテオンの近くの「アグリッパの公共浴場」までつながっていました。
そのトレビの泉の近くに1999年、イタリアを代表する喜劇俳優「アルベルト・ソルディ(Alberto Sordi)」の名前を冠した映画館「サラ・トレビ(Sala Trevi)」を作ることになり、その工事の途中段階で素晴らしいローマ時代の建築物が発見されたのです。
発掘の結果、総面積は350平方メートル、最大深度9メートルのローマ時代の集合住宅「水の街(La citta’ dell’Acqua)」が見つかりました。
紀元後1世紀の集合住宅は、その後紀元後2世紀のハドリアヌス皇帝の時代に11メートルの2階建公共施設に改装されます。
現在見学出来るのはこの時代の物で、中には貯水槽も設けられました。
現在でも一番低い位置でローマの地下水が流れているのを見ることができ、ローマ時代の街が地下に眠っているのを肌で感じることができる素晴らしい遺跡です。
もちろん映画館「サラ・トレビ(Sala Trevi)」も完成して遺跡と同じ入場口から上映室に入るようになっていて、昔の映画をよく上映しています。
「水の街(La citta’ dell’Acqua)」の入場時間は火曜日から日曜日で11時から17時までとなっています。入場料は4ユーロです。トレビの泉に行かれた際は、ぜひ足を運んでみてください。
猫市からカンポ・デ・フィオーリの朝市

猫市からカンポ・デ・フィオーリの朝市

ローマと言えば昔から猫が遺跡に住んでいると言うくらい猫が多いことで有名ですが
昔に比べたら随分コロッセオやフォロ・ロマーノの猫は減ってきました。
そんな中で動物愛護運動の方々に護(まも)られている猫市がローマの古代遺跡に作られています。トッレ・アルジェンティーナ広場はパンテオンに比較的近い、カンポ マルツィオ(Campo Marzio)に位置し紀元前2世紀、3世紀の古い古代遺跡の神殿が残されているところです。
4つの神殿はカルタゴの勝利を記念して作られたユートウルナの神殿、幸運の女神フォルトウーナの神殿、豊穣の女神フェーローニアの神殿、航海の守護神ラレースにささげられたものです。
その遺跡の中の脇にCat Sanctuaryと看板が上がっているところに、保護された猫たちが護られて、きちんと去勢も受けて穏やかに過ごしています。
遺跡の中は自由に歩き回って日向ぼっこをしている猫を見ると心が癒やされます。
昔は300匹位いましたが、今は減ってきたそうですが、猫が好きな方には必見の場所です!
またこの広場に面した現在のアルジェンテイーナ劇場の地下でユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の暗殺があったことが考古学上、正式に認められました。
ベネチア広場から出ているトラステベレに向かう8番の路面電車からも見えますので、トラステベレに行かれる際は最初に曲がる角の広場が猫市ですから右側を注目しておいてください。
その猫市から歩いて5分ほどで、ローマで最も有名な朝市が出るカンポ・デ・フィオーリ広場(Piazza Campo de’ Fiori)に行くことができます。
Campo de’ Fiori(カンポ・デ・フィオーリ)の名前の由来は15世紀までこの位置は花の咲く広い草原と耕作地があったことから、「花の広場」という名前が付けられました。
現在は朝市で有名ですが、かつて1600年代は処刑や縄張りの刑が行われたところでもありました。
カンポ・デ・フィオーリ広場の真ん中に置かれている像「ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)」は哲学者でドメニコ会修道士でしたが、1600年2月17日に「異端者」と告発され、生きたままこの広場で焼死しました。
この記念像は彼の哲学者としての業績をたたえて、1889年6月9日に広場の中心に安置されたものです。
朝市なので、午後には市場は無くなってしまいますが、広場の周りにはいろいろなレストランがあり夜は若者が足を運ぶ人気スポットにもなっています。
朝市でのお勧めは搾りたてのザクロの生ジュースです。ものすごく濃厚で美味しいので、ぜひお試しください。
天才ベルニーニの街 ローマ

天才ベルニーニの街 ローマ

永遠の都ローマはバロック建築の街ローマとも言われていますが、実際にはローマのバロックは1624年からと言われています。もともとローマンバロックはキリスト教カトリックの歴史の中でも大きは節目となった反宗教改革から生み出されたもので、
多くのカトリック信者がプロテスタントに改宗しないように教会建築の回廊を分けないことで、信者を出来るだけ多く教会に入れるように、また教会の前に広場を作り、劇場の様に教会の前にも信者の方が集まれるようにという思考の元に作られていきます。
かつてのローマにあった多くの教会も、バロックの時代に入ってから、ほとんどの教会がバロック様式に切り替えられ、内装も多種類の大理石や貴金属、だまし絵のテクニックを生かした豪華な教会建築になっていきました。
そのローマの最も輝いたバロックの時代に5人の教皇の寵愛(ちょうあい)を受けローマの街をよみがえらせたのが、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニです。
ベルニーニは1598年12月17日にナポリで生まれますが、1604年に工房を持つ父と共に家族でローマに移住します。
彫刻家の父親ピエトロ・ベルニーニの下で幼少の頃から彫刻を学んできたベルニーニは13歳で初めての作品を作り上げ、1680年11月28日に82歳の生涯を終えるまで数多くの彫刻作品を制作し、また教会建築、都市計画の総監督としてローマの街を彩らせていくのです。
やはり彼の才能が開花したのが1621年から1年で作った大理石彫刻「プルトンとプロセルピナ(Pluto e Proserpina/ボルゲーゼ美術館所蔵)」です。
素材が大理石とは思えないような美しい女性の柔らかい肌や力強い男性の筋肉みなぎる肉体美を表現し、世界で初めて涙を流す女性の表情を彫刻に刻み、わずか24歳にして天才という名を世間に知らしめました。
ベルニーニの作品はローマ市内だけでも17カ所あります。4大河の噴水、トリトーネの噴水、蜂の噴水、バルカッチャの噴水、サンタマリア・デッラ・ヴィットリア教会、サンタンドレア・アル・クイリナーレ教会、サンタマリア・デル・ポポロ教会、サンフランチェスコ・ア・リパ教会、サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会、サン・ピエトロ広場、ポポロ広場と門、サンタンジェロ橋の天使(サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会に保護)、ミネルバ広場のオベリスク、モンテチトリオ宮殿、バルベリーニ美術館、ボルゲーゼ美術館、カピトリーノ博物館。
特にボルゲーゼ美術館はベルニーニの作品が多く、彫刻は彼が15歳から72歳までに制作した10作品が展示され、3枚のベルニーニ自らが描いた自画像もあります。
また、ベルニーニの父親ピエトロの作品と、息子のジャンロレンツオの合作もあります。
バチカン博物館に注いで人気の高いボルゲーゼ美術館は完全予約制かつご見学は2時間制となっておりますので、必ずお早目にご予約することをお勧めいたします。
ベルニーニの住居はスペイン広場近くのサンタンドレア・デッレ・フラッテ教会の斜め前の建物で、その記念碑が残されています。82歳の生涯を終えた彼はローマ4大教会の一つ、サンタ・マリア・マッジョーレ教会の中で眠っています。
巨匠カラヴァッジョの探訪

巨匠カラヴァッジョの探訪

バロック芸術の創始者と言われた天才画家カラヴァッジョは、1571年9月29日にミラノで生誕しました。本名はミケランジェロ・メリージですが、彼が6歳から13歳まで育った「カラヴァッジョ(Caravaggio)」という街の名前を芸術名として使ったことから、カラヴァッジョと語り継がれています。彼は6歳で父親、叔父、祖父をペストで失い、13歳からミラノの画家に弟子入りします。19歳の時に母親を失い、21歳の時にローマに移ったカラヴァッジョは、マニエリズムの画法を身につけながらも、彼独特の明暗法のテクニックを使い、脚光を浴びます。当時の「絵画は美しいものを描く」という思考を覆したのがカラヴァッジョです。
彼の絵画は人間の老いた姿や貧困者の汚れた手足、血が滴る殺害のシーンなど独特のイメージを絵画に収めていきます。リアリズム(写実主義)と自然主義に徹した彼の絵画は多くのパトロンを呼び、多額の報酬を受けるまでに成長しますが、酒癖が悪く論争を起こす彼の性格が彼の運命を大きく変えて行くのです。初期の彼の作品はほとんどが静物画か少年の姿を描いた物でしたが、1600年に枢機卿の命を受けサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会のマタイの3部作で一気に大ブレイクします。
カラヴァッジョ独特の明暗法のテクニックは絵画に奥行きを持たせ、動きを醸し出すテクニックは後にカラヴァッジェスキ(カラバッジェ画法)という言葉を生み出し、多くの画家がそのテクニックを模倣して作品を残していきました。
1606年5月29日、成功者のカラヴァッジョの人生を変えた運命の日。彼は競技をしている相手と口論し、殺人事件を起こしてしまいます。その後、死刑宣告を受け、ローマから南イタリアへ逃亡生活を余儀なくされてしまいます。カラヴァッジョの絵画が、ナポリ、マルタ、シチリアにあるのは、正にこの逃亡生活の間に描いた作品だからです。
逃亡生活に疲れ果てたカラヴァッジョは1610年に教皇パオロ5世に恩赦を哀願し、ローマに戻る帰路のポルト・エルコレ(Porto Ercole)で熱病に侵され、波乱万丈の38歳の生涯を終えました。カラヴァッジョの絵画は魂が宿っているとも言われますが、特に死刑囚として追われるようになってから彼の絵画には生と死の狭間にいる彼の精神状態が表現されているような不思議な魅力を感じます。
38歳で亡くなっているので、作品の数は限られていますが、ローマのパオロ5世の甥のシピオーネ枢機卿がカラヴァッジョを溺愛して多くの作品を収集し、ボルゲーゼ美術館では6枚のカラヴァッジョの作品を見ることができます。それ以外に、ローマには4つの教会、6つの博物館に作品が保護されています。また彼の住まいや殺人事件を起こした場所、よく通った食堂なども残されています。
1日かけてゆっくりカラヴァッジョに浸ることができるのも、ローマの魅力の一つになっています。
クラウディア皇帝の水道橋公園

クラウディア皇帝の水道橋公園

クラウディア水道橋は、ローマにある11本の水道橋の中で8番目に建設されたもので、古代水道橋の中でも最も重要な水道橋と言われています。
もともとは紀元後38年にカリグラ帝が着工し始め、紀元後52年のクラウディア皇帝の時代に完成します。ローマから約69キロ離れたアニオ川上流の二つの泉が水源地で、同じ時期に新アニオ水道も作られ水道橋の一部分は共用して使われています。
ローマの建築技術は現在の建築技術の一級と言われていますが、2000年前の水道橋が今まで残された1番の理由は、やはりローマンコンクリートを使って水管の部分が作られているからです。
ローマンコンクリートは、ナポリ地方のポッツオーリ(Pozzuoli)で取れる、火山灰、石灰、火山岩、海水を混ぜ合わせて作られたものです。最後に海水を加えることによって、コンクリート内で新しい鉱物が形成され時間が経てば経つほど、強度を増していったと言われています。
コロッセオのような巨大円形競技場が2000年経ってもいまだに残っているのも、まさに基礎建築技術と素材開発によって歴史を残してくれたと言っても過言ではありません。エトルリア文明によって生み出されたアーチ建築が、ローマ時代に導入され、重量を左右に散らすことで高い建物が出来るようになりました。